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バリューの親方
バリューの親方
私は天童に住んでいますが、出身は酒田です。
で、どんなオヤジだかと言うと・・・・
こんなオヤジなんです。詳しくは、http://www.value-c.jp/outline.html

2011年04月24日

地震保険

 ずいぶんと地震保険に関してのご質問をいただきます。

実際、私も地震保険の鑑定をしてみてわかることなのですが、ネットなどで皆さんも調べて知識を得ているようですが「言葉の響き」で誤解があるように思います。

以前記したように、地震保険は、国が保険金の保険金を支払いを行います。
これは、建物の損害を鑑定し、それを修復すると言うより、被災された方々が、一般的かつ安全な生活を維持できるように支払われる保険金です。

よって、修復にかかわる見積もりを取って、それを査定するような鑑定ではありません。
ですから、支払われ方も「全損」「半損」「一部損」そして「無責」といわれる免責四つしかありません。

全損は地震保険に掛けた金額の100%、半損は50%、一部損は5%の保険金が支払われます。
ここで、誤解されやすいのが「全損」「全倒壊」、「半損」「半倒壊」です。
イメージ的にはよく似ているようですが、これは異なります。

ちゃんと建物は建っていても、鑑定方法では全損にも半損にも認定されます。
地震保険鑑定には、一定の鑑定方法があります。
これはいろいろな係数を組み合わせていって、ある一定のパーセンテージを超えると、一部損、半損、全損に認定されます。

特に、半損は半分ではなく、基準表の損害割合において損害が20%以上~50%未満が半損と認定され、地震保険の保険金の50%が支払われます。

自分の家は、ほとんどダメージを受けけていないと思っても、地震保険に入っているのであれば、損保会社に連絡し、鑑定を受けることをお勧めします。

自分の家は、津波で流された岩手や宮城の方々に比べたら・・・と思うのは人情でしょうが、自分の資産を守るために掛けた保険です。
地震保険で完全修復は難しいかもしれませんが、持ちえた権利は行使すべきだと思います。

もちろん支払われた保険金を義援金に寄付するのは、個人の気持ちの問題ですから、そこまでつべこべ言うつもりはありませんが・・・。  


Posted by バリューの親方 at 01:40

2011年04月20日

海の墓標

  私は小学生の頃から、将来の夢は航海士でした。船長ではありません。あくまでも一等航海士です。その言葉の響きにも憧れを感じ、ブリッジに立ち、航海術を駆使して大型船を、老船長の下で操るのを夢見ていました。

当時、将来の夢と聞かれると、少年たちは迷わず野球選手、パイロットなどと言っていた時分です。
私のこの将来の夢は小中高大と一貫していて、実は今もその将来の夢は変わりません

何よりも船が大好きでした。
小学生や中学生は早起きは苦手です。でも日曜日の朝は、誰よりも早く起きて自転車を走らせ港へ行って、潮風の中で停泊している貨物船や漁船を見るのが大好きでした。

進路も節目節目で、村上海員学校、富山商船高専、東京商船大、海上自衛隊一般幹部候補生と変わりますが、みな船つながりです。入った運動部もヨット部、選んだ種目も外洋艇、唯一の趣味もセーリングというわけです。

先日来、従事している地震保険の鑑定業務の折、小名浜に赴きました。そこは懐かしい場所でした。以前、ヨットで寄港したことがあります。
でも信じがたい光景が広がっていました。

港には打ち上げられた船が幾重にも重なっており、港内には沈船が舳先を覗かせ、あるいは赤い腹をさらしていました。船の好きな私は、こういう姿を見るのが何よりも辛かった。

それにも増して、関東方面からの乗用車が大挙して訪れ、手に手にカメラを持って、こういう船をバックに記念撮影している姿がたまらなく許せない気持ちでした。観光とは言わないけれど、物見有山に見えるのは私だけでしょうか。ここはドライブスポットやデートスポットじゃない!!

港の際に建ち、自らも津波の被害を受けた海上保安部の庁舎屋上に、弔意を表す半旗が翻っていたのが何よりの慰めでした。


1階のブルーシートが痛々しいですね。でも、巡視船は岸壁に凛として停泊していました。


恐がりさんの私は、完全防備で仕事してます。  


Posted by バリューの親方 at 14:26

2011年04月13日

鑑定

先月、地震保険について記しました。
実は、ブログを更新できなかったのには、訳があります。
福島に地震対策本部ある某損保の依頼により、地震保険の鑑定のため、郡山に赴きました。 

被災された家屋に住まわれる方々に、保険金を一日でも早く支払われるようにその場で鑑定するためです。

やっと取れた建築士の資格が被災地のために役に立ちました。
1週間の派遣期間が終了し、余震で車も停まり停まりしながらやっと天童に戻りました。

現地では、一軒でも多く鑑定しようと、ひっちゃきになってタクシーを貸しきって福島県を北へ南へ、東に西へと走り回ります。
戻ると報告書を夜遅くまで制作します。多額の保険金をお支払いするのですからその証拠となる報告書をまとめるのも大変です。

でも、一日でも早く補修や改修をしないと危険な家屋も多くあります。眠いなんていってられません。
宿舎に帰ると泥のように眠るのが日課となりました。飯を食うより眠りたいといった状態です。

新築住宅を建てるのが私たちの仕事ですが、被災した建物を鑑定していると、反省を含めて色々な意味で勉強になります。
建物もさることながら、地盤がいかに重要かがわかります。

二度とこんな悲しいことは起きぬよう、派遣された経験を山形の家屋にも役立てたいと思います。  


Posted by バリューの親方 at 23:35

2011年04月06日

数の力

 義捐金、ものすごい金額になっています。
ありがたいことです。
直接的、間接的に募金されたもの。ほんとうに世界中から信じがたい金額です。

大切なことは継続だと思います。
私などは、商売をしておりますし、広告代理店として考えると、仕組みを使って効率的に人々の善意を集められないかと考えてしまいます。

先日、新聞に面白い記事が載っていました。
数の原理の話でした。「これは、いいわ!!」と膝を打ちました。
それは、寄付金付年賀はがきです。

今年の年賀はがきは、激減したとはいえ34億4400枚だったそです。1枚につきたった5円の寄付金を付与するだけで、172億円の寄付金が計上できます。
弊社の売り上げと比較すると・・・・・。
すごい金額です。そして、みんなが、出さねばならないお約束の年賀状ですから、効果は抜群です。

もっと凄いのは、1円募金です。
これを見たとき、こりゃ凄いと目からうろこが落ちました。
それは、ご飯を食べられることに感謝し、1食食べるごとに、国民全員が1円寄付するのです。3食で3円。1億人が行えば、1日3億円。365日を掛け算してみてください。

確かに全国民が三食べないという計算もあるでしょうが、言いたいことは、この数の原理です。
一人で100億円とか10億円という寄付も凄いですが、こういう積み重ねの力はもっと凄いと思います。なにせ、継続なんですから。継続は力なりとも言うじゃないですか。

昨今ネットや新聞で感動的なお話が数多くあります。この感動したら10円とかという募金でもいいと思うんです。
何か、自分流の募金の約束を作ってみることも継続への一歩かもしれません。
それが数の力になって行ければ凄いですね。

私は今、郡山に来ています。
地震保険の鑑定人が不足し、被災者に保険金を支払うのが遅れていることで、その建物の被災状況を調査し、一日でも早く保険金を支払えるようにするという支援業務のためです。
五十路にして取得した建築士の資格が、こんなところで役立つとは思いませんでした。

とにもかくにも、できるところから支援しましょうよ。そして細くともな長く。  


Posted by バリューの親方 at 23:20

2011年04月03日

雲の予告


不謹慎だと思ったので、しばらくしてから書こうと思ったことがあります。
でも、不思議な記録として残しておこうと思い、書くことにしました。

 地震から3日したころ、心配して息子から国際電話がありました。
ひとしきり無事を確認した後、息子が言いました。
「そう言えば、仙台空港に送ってきてくれた日、空に変な雲があったよね。地震雲じゃないかって言ってたヤツ。あれ、写真撮ったんじゃなかった?」

上海に留学している息子が、旧正月休みも終わり、上海に帰る日のことでした。それは2月23日。
普通なら車で東北自動車道、南部道路、東部道路を経由して仙台空港に送るのが常でしたが、今回は私もそのまま出張と言うことで、山寺駅に車を置き、一緒に仙山線で仙台へ向かったんです。

しばらく会えなくなる息子の写真を列車内で撮っていると、車窓から不思議な雲が見えました。
「飛行機雲かな・・・・?でも、ああいう地震雲もあるって前にネットで見たことがあるよ。あの雲の形、XとIって、アラビア文字の11だよね。なんか11月か11日に地震でも起こるんじゃない?でも、できすぎてるか・・・・。ついでだから一応写真だけ撮っとくか」と言って笑って済ませたものでした。

そしてら、本当に翌月の11日にあの震災が起きてしまいました。
私も息子に言われるまで忘れていましたが、撮ったデータを探してみてみてビックリ。正直、鳥肌が立ちました。
でも、飛行機雲と言ってしまえばそれまでだし、松島基地のブルーインパルスの訓練なら交差する飛行雲だって不思議はありません。でも、不思議です。

ネットでもこの日近辺にどこかで同様の雲を見た人がいないか調べてみました。

居たんです。同じような雲を見た人が。それも仙台上空ではありません。はるか離れた大阪の方です。その方のブログには、他にもこのような雲を見た方が居られると記されていました。

偶然とは言え、不思議ですね。
世の中には科学ではなかなか解明されないこともまだまだ多いと聞きますし、どうなんでしょうね。
でも、この写真を元に、あの日、大地震の前兆だから気をつけろなんて言ったって、誰も信じてくれなかったでしょうけど。


右上の横の白いのは、車内の蛍光灯の反射です。
天から地上に向かって、明らかにXとIと書かれています。

ちなみに、同じような雲を見た方のコメントが書かれたブログはこちらです。ご参考まで。
クリックで直接行けないかもしれないので、コピペでやってみてくださいね。
http://blogs.yahoo.co.jp/digturbo/32346195.html




  


Posted by バリューの親方 at 17:57

2011年04月02日

スタートの日

 4月1日は新たなスタートの日とよく言われます。
昨日は、まさに日本国中何がしかの新たな新年度スタートがありました。
勢い中小企業の経営者も何かにと忙しい日です。
朝礼や入社式で訓示の一つも述べねばならない日でもあります。

私は、その大事な日に会社に居りませんでした。
遠く気仙沼に居りました。

 大学ヨット部時代の2期先輩が気仙沼高校の校長をしており、彼をよく知る同期や後輩が持ち寄れる救援物資を持参し、お見舞いと何かお手伝いをということで、現地へ赴きました。

それと、震災の影響もあり、私どもも事業環境が厳しい状況におかれるであろう今期、まさに今、復興のスタートを切ろうとする震災地の方々と同じ思いでスタート切ろうと思ったからです。

 一関インターを下り、早朝の気仙沼街道を東へ。
途中や気仙沼市内に入っても、普通の街並みと変わりませんでした。場所を間違えたのかと思うほどでした。沢山の人が避難しておられる気仙沼高校も高台にあり、被災を感じさせません。

しかし、海辺へ近づくにつれ、様相は一変しました。
言葉を失います。「あ~、これは・・・」これしか言葉になりません。
報道ではあくまで二次元の映像ですが、現地に行ってこれが三次元となり、漂う空気や吹き抜ける風、土ぼこりすらも現実のものとなって目の前に表れます。

 戦災を知らない私には、五十数年間生きてきて、最も悲惨な状況を目の当たりにしました。
この被災地、ここの人たちに何をしてあげればいいの・・・・
今、私に何ができるのと心の中で繰り返し、私たちに今できることは、日々の業務を粛々と行い、税金を1円でも多く納め、復興に貢献することだと言い聞かせるのがやっとでした。

震災の影響で景気低迷を理由に、業績を落として赤字になるようなことは、この被災地のためにも決して許されることではないと、新たなスタートを切ったこの日、心に刻みました。

 気仙沼高校は、避難場所に指定されていたわけではなく、高台の高校目指して避難してきた市民を、校長の即断即決、しかも独断で学校施設を提供したのだと聞きました。勇気ある英断だと思います。

そして、授業が再開されたとき、その影響を極力抑えるために、体育館や武道場などの避難施設と教室棟とは巌として区別し、学校の菅理責任者としてもギリギリの決断だったと辛い胸のうちを話してくれました。

 気仙沼高校の体育館に集積された救援物資を、用途別、サイズ別に分別して再度箱詰めする作業を春休みで来ていた気仙沼高校の生徒さんとともにお手伝いしました。
彼らの話では、ちょっと前までは、体育館の床が見えないほど物資があったが、なんとか出荷し、やっとこれだけになったと語っていました。

 報道の通り、どこの物資集積所にもこのように大量の物資が世界中から届いているのでしょうが、本当に必要なところに、必要なものが、必要な数だけ届いているのかが心配されるところではあります。

 時間の経過によって、現地で必要とされる物資の種類や数量が変化しつつあると言うことも感じました。
震災から早三週間、大切なのはこれからです。
それぞれが無理せず、できることを、できる人が、できるところから、しかも長く支援することが大切だと思います。


悲惨な被災現場の写真は辛くなるので、奇跡的に被害の少なかった気仙沼港の一部の風景だけ載せます。写真を撮った私の背後は瓦礫の山です。


避難所に指定されていなかった気仙沼高校にも、ちゃんと自衛隊が炊事車を持って来て、炊き出しをしてくれていました。夕食のメニューは、天婦羅ウドンとご飯。
彼らは毎食の炊き出しの為にグランドへ駐屯している福岡の部隊です。
トラックには炊事隊ではなく、高射砲隊と記されていたのを見てビックリ。本当は戦闘部隊なんだ・・・。


気仙沼高校の体育館です。毎日出荷し、一時体育館の床も見えないぐらいだった救援物資もここまでになったとのこと。ありとあらゆる種類の物資がありました。


ほら、おじさんもこの通り、お約束のマスクをして精を出します。ちょっと疲れが見えるな~。


今回の気仙沼救援ミッションに参加した若かりし頃の真っ黒なオヤジ達。(私は左から二人目。当時3年生)
1979年 仙台で行われた全日本学生ヨット選手権出場の母校支援のため、早大ヨット「稲龍」で、神奈川県油壺から開催地の宮城県七ヶ浜へ到着した時の写真です。
この七ヶ浜を始め、航海中に寄港した思いで深い太平洋岸の港町は、ほとんどが壊滅的な震災にみまわれました。  


Posted by バリューの親方 at 12:44