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バリューの親方
バリューの親方
私は天童に住んでいますが、出身は酒田です。
で、どんなオヤジだかと言うと・・・・
こんなオヤジなんです。詳しくは、http://www.value-c.jp/outline.html

2011年04月02日

スタートの日

 4月1日は新たなスタートの日とよく言われます。
昨日は、まさに日本国中何がしかの新たな新年度スタートがありました。
勢い中小企業の経営者も何かにと忙しい日です。
朝礼や入社式で訓示の一つも述べねばならない日でもあります。

私は、その大事な日に会社に居りませんでした。
遠く気仙沼に居りました。

 大学ヨット部時代の2期先輩が気仙沼高校の校長をしており、彼をよく知る同期や後輩が持ち寄れる救援物資を持参し、お見舞いと何かお手伝いをということで、現地へ赴きました。

それと、震災の影響もあり、私どもも事業環境が厳しい状況におかれるであろう今期、まさに今、復興のスタートを切ろうとする震災地の方々と同じ思いでスタート切ろうと思ったからです。

 一関インターを下り、早朝の気仙沼街道を東へ。
途中や気仙沼市内に入っても、普通の街並みと変わりませんでした。場所を間違えたのかと思うほどでした。沢山の人が避難しておられる気仙沼高校も高台にあり、被災を感じさせません。

しかし、海辺へ近づくにつれ、様相は一変しました。
言葉を失います。「あ~、これは・・・」これしか言葉になりません。
報道ではあくまで二次元の映像ですが、現地に行ってこれが三次元となり、漂う空気や吹き抜ける風、土ぼこりすらも現実のものとなって目の前に表れます。

 戦災を知らない私には、五十数年間生きてきて、最も悲惨な状況を目の当たりにしました。
この被災地、ここの人たちに何をしてあげればいいの・・・・
今、私に何ができるのと心の中で繰り返し、私たちに今できることは、日々の業務を粛々と行い、税金を1円でも多く納め、復興に貢献することだと言い聞かせるのがやっとでした。

震災の影響で景気低迷を理由に、業績を落として赤字になるようなことは、この被災地のためにも決して許されることではないと、新たなスタートを切ったこの日、心に刻みました。

 気仙沼高校は、避難場所に指定されていたわけではなく、高台の高校目指して避難してきた市民を、校長の即断即決、しかも独断で学校施設を提供したのだと聞きました。勇気ある英断だと思います。

そして、授業が再開されたとき、その影響を極力抑えるために、体育館や武道場などの避難施設と教室棟とは巌として区別し、学校の菅理責任者としてもギリギリの決断だったと辛い胸のうちを話してくれました。

 気仙沼高校の体育館に集積された救援物資を、用途別、サイズ別に分別して再度箱詰めする作業を春休みで来ていた気仙沼高校の生徒さんとともにお手伝いしました。
彼らの話では、ちょっと前までは、体育館の床が見えないほど物資があったが、なんとか出荷し、やっとこれだけになったと語っていました。

 報道の通り、どこの物資集積所にもこのように大量の物資が世界中から届いているのでしょうが、本当に必要なところに、必要なものが、必要な数だけ届いているのかが心配されるところではあります。

 時間の経過によって、現地で必要とされる物資の種類や数量が変化しつつあると言うことも感じました。
震災から早三週間、大切なのはこれからです。
それぞれが無理せず、できることを、できる人が、できるところから、しかも長く支援することが大切だと思います。


悲惨な被災現場の写真は辛くなるので、奇跡的に被害の少なかった気仙沼港の一部の風景だけ載せます。写真を撮った私の背後は瓦礫の山です。


避難所に指定されていなかった気仙沼高校にも、ちゃんと自衛隊が炊事車を持って来て、炊き出しをしてくれていました。夕食のメニューは、天婦羅ウドンとご飯。
彼らは毎食の炊き出しの為にグランドへ駐屯している福岡の部隊です。
トラックには炊事隊ではなく、高射砲隊と記されていたのを見てビックリ。本当は戦闘部隊なんだ・・・。


気仙沼高校の体育館です。毎日出荷し、一時体育館の床も見えないぐらいだった救援物資もここまでになったとのこと。ありとあらゆる種類の物資がありました。


ほら、おじさんもこの通り、お約束のマスクをして精を出します。ちょっと疲れが見えるな~。


今回の気仙沼救援ミッションに参加した若かりし頃の真っ黒なオヤジ達。(私は左から二人目。当時3年生)
1979年 仙台で行われた全日本学生ヨット選手権出場の母校支援のため、早大ヨット「稲龍」で、神奈川県油壺から開催地の宮城県七ヶ浜へ到着した時の写真です。
この七ヶ浜を始め、航海中に寄港した思いで深い太平洋岸の港町は、ほとんどが壊滅的な震災にみまわれました。



Posted by バリューの親方 at 12:44