私どもの生業は、
不動産業者、宅建業者と呼ばれるより、
不動産屋と呼ばれることが常です。
不動産屋と、いうとどうも
ダーティーなイメージがあっていけません。
イメージがあると言うことは、それ相応のことをやっていたからこそ消費者の方々には潜在的にそういうイメージが定着してしまったのだと思います。
先日、業界の寄り合いがあり、超先輩業者さんたちに囲まれて、小さくなって飲んでいました。
超先輩の同業者さんたちは、宅建業の免許番号である
山形県県知事(○)××××の( )内が
二桁になっているような業者さんたちです。
個人業者から法人成りして、番号が新しくなったが、元々は登録順の番号である××××が2番だったという
山形県で2番目に老舗の社長さんもおられました。
昔は3年更新、今は5年更新で、更新されるたびに( )内の数字が増えていきます。
当然、開業当初の5年間は(1)となります。弊社は(2)です。
その先輩諸氏から、面白いお話を聞きました。
正に、不動産屋というダーティなイメージが出来上がった頃のお話でした。
時は、戦後の間もないころから日本の復興期にかけての頃。
当時は、免許制度や宅建主任の資格も存在しない、いわば完全民間売買で土地を売り買いしていたころです。当然そこにはブローカーが蔓延ります。その
ブローカーたちの前職に共通点がありました。
農地を宅地化して高額商品に化けさせていたので、
農地や農家に詳しく、しかも
ゼロから有の価値をを作り出すワザに長けており、
舌先三寸で商売しているような業種からの
転向組です。
一つは、農地解放で土地を取り上げられた
旦那衆。これは家に残された財産などを切り売りし、生業を立てる
骨董品屋に転向した方々だそうです。その骨董品売買の片手間で土地の売買をしていたというものでした。
次は、農業器械の発達で、職を失いつつあった
馬喰や博労と書く、馬や牛の売買ブローカーをしていた方々です。
そして
、地場の893と言った面々です。昔の話とは言え、借金のかたに娘か土地の証文を渡せと凄むのは、はっきり言って商売ではなく犯罪です。一昔前の東映の映画みたいですね。
当時は、契約書や重要事項説明もなく、土地売買や権利形態の知識に乏しい善良な百姓を手玉にとって、信じがたい商売をしていたそうです。
朝方、土地を買い取る現金をポケットにねじ込んで出かけ、
帰りには両方のポケットが札で溢れていたなんていうお話も昔はあったそうです。そのまま料亭に直行して芸者総揚げというから何とも羨ましいお話です。
宅建業協会が設立されたころなどは、荒っぽい業者が多く、飲み会などでは、罵声やビンタが飛び交うのは当たり前だったなんて話もあります。
そういう方々は、今はこの世になく2代目、3代目の時代です。
アメリカのように不動産業のステータスが高い国のレベルまでとは言いがたいですが、日本の不動産業は当時はなかった
宅建業法や宅建主任の業務規定で雁字搦めに縛られ、
とてもクリーンな業界に成長しました。
国内には、不動産学部や不動産学科を有する大学まであるんですよ。
私どもも、せっかく良くなった不動産業のイメージを損なわないよう励みたいものです。
< P R >
頭金ゼロ、ボーナス払いゼロ、月々家賃並みの返済で、20代からの土地付き一戸建てマイホーム。山形県内の山形市、天童市、東根市、寒河江市で、夢実現のお手伝い。バリュー・クリエーションです。